空色絵本『願いの標本』

空色絵本のことを書く。

死の淵、というのは世界のあらゆる場所にあって、そこを立って・覗き込んでしまった経験のある人というのは、とかくそれを表現したがる、というより、自分が生きるために、それを表現せざるを得なくなるのだと思う。それは、自分を取り巻く世界の暴力性であり、理不尽への憎悪であり、静謐への欲望であり、それはそれは複雑な感情で、けれど一方で、創作において、人を殺しうるのは出来の悪い嘘だけで、その見せかけが美しかろうと美しくなかろうと、そこに嘘が無ければ、その「作られたもの」は、それを世に送り出したひとがどう思っていようと、人を生かす力しか持ちえないのが現実で。

強度をもって死ぬ、というのは、その瞬間を確実に生きるのと同じことで、不幸な死は、むしろ生と死のいい加減さによって齎されるわけで。そうでない場所で、確かに生きる、という、その過程を、観行の最もたるひとつの形である音楽によって表現することは、何よりも強く人を「生かす」ことに他ならない。

空色絵本のコンポーザー・ギタリストである佐藤氏は常々「ギターの音で人を殺したい」と言っていた。けれど、作り手であった人が何を思おうと、空色絵本の音楽は、私が今よりもっと危なっかしい状態で危なっかしい場所に立っていた時期に、私をこちら側に繋ぎとめていたいくつかのものの一つだった、と思う。眠れない夜に、聞けば、確実に静謐の向こう側へ行けた。タナトスの行きつく場所は、世界の本当から目をそむけて生きるとき、とても有毒で、見てはならないもので―――でも、それは、それによって壊されるものは、生きることの嘘。嘘の安寧から、人を引っ張り出してしまうもの。

結果として、この音楽で私は死ななかった、という現実がある。

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でも、そういう、(おそらくは無数の)(殺害)失敗を孕んでいても、空色絵本の音は、死への衝動を視たひとたちが、自分たちの見たものを、万難排して表現した、強烈なロマン(『空想』)のかたち、そういう音楽としては、たいそう強度の強いもののひとつである、と、本当にそういう音楽しか好きじゃない私は明言する。まアたぶん、同人音楽的に大先輩であるところの(柏木るざりん氏とこの方が、私の同人音楽との関わりにおいては文字通りの『先駆』なので)佐藤氏からしたら、私のこの捉え方は納得いかないのかもしれないけど。

音楽評論家の富田明宏氏は、空色絵本の音楽性を「エレクトロニカの孤塁を守り続ける」と評している。音楽の展開の一部ではなく、サウンドの一部として、「うた」をノイズとシーケンスで奏でる、というスタイルのPOPSが、日本においては商業は愚か、アマチュアの世界でも一般的でなかった頃に、六畳だか一間の、スポットライトも何も当たらない場所で「歌物エレクトロニカ/ポストロック」を先駆的に形にしたひとたちのひとつであり―――そして、同人音楽、アマチュアシーン、アニメ・ソングの世界から、現在はVOCALOID等の音楽を中心にある種定型化されて・一般化されたそのジャンルにあって、あくまで「自分たちの音」を形にし作り続ける人たち、という意味ではその評論は間違いないのだけれど、私はエレク氏トロニカ・ポストロックというジャンルには元々興味がなかったし、今でも決して詳しくはないので、その文脈で、この人たちの音楽を語ることはできない。ただ、『自分がいまいる場所に立って/音を・自分たちの声を出す/ロックをやる』一点においては物凄く強い影響を受けたと思う。

佐藤氏と以前やりとりした言葉を持ち出すならば、「自分の存在をつくる些細な、そして無数の音の一つを/他者に届く言葉として形にするということ」。空色絵本にとってのそれは、「人を殺したい」ギターで、ひとりの人の中にうつる空が鳴らしたメロディで、マイクを立ててすくい取った、自分たちの世界の周りに偏在するノイズを星の輝きのように、机の中の宝物のように綺麗に刺激的に配列して、唯一無二のボーカリストであるあべさんの声と言葉で表現することだった。そういう音楽だと思っている。

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『願いの標本』について。

リリース直後、当時、たしか滅茶苦茶きいた。なぜ聞いたのかというと、本当に単純でな前述の理由で―――端的に言ってしまえば、「眠れない夜に、確実に眠れた」し、「苦しくてしょうがないときに、凪いだ感覚を体験できた」からだ。でも、本当に『衝動』だけを聞いていたから何も語れるものが残っていなくて―――レビュー書こうと思って聞き返してたら、音楽的に色々気付く部分があって、何を書いたらいいのかわからなくなりつつある。だから、このCDをレビューするなら、もっとわかりやすい角度で語る必要があって、ラストトラックの『惑星から』を挙げる。いや好きな曲度だと私は「兆し」が競るんだけど。

『惑星から』は、Materia Rhythemさんというサークルさんと共同で出された、Rus01という実験コンピレーションからの再録で、あれも、バックグラウンドに込められた物語を含めて、まるで小説みたいに面白いCDだったのだけれど。この「願いの標本」こ7のCDの最後にあるこの曲、というのは、また、違うかたちで不思議な重みを持っている。作品の全部であったり、空色絵本が、空色絵本が関わってきた音楽シーンと、そこに関わってきたひとりひとりの、顔の見えないだれかが、積み上げてきた時間の中の一瞬が、フラクタルにそこにあるみたいな。
そこにあるのは華やかな「ミュージシャン」の、メディアにお洒落ナイズされたような人生ではなくて、過去に誰かが既に提示した価値観に沿うようなヒロイックさはなくて、でも、でも、ただ「自分たちにとって」愛おしくて美しい、紛れもなく特別な瞬間があって、そのとき夢見た未来が、確かにそこにあったのだと語られる。それはもう過ぎ去ってしまったのだと、その痛みが、偏在する苦痛の、死に至るほど深いのだと暗示される。そういう奇跡。誰かが作った嘘でない、「ほんとう」の一瞬を写し取らない幻想に、表現されない表現に、何の意味があるのか。

「空想音楽」と銘打ちながら、泥臭いリアリティと、限りない愛着をもって写し取られた、まるで好きになれない現実の、あるいは自分自身の暴力性や破壊衝動を通過して、それでも毀れないで残った、夢まぼろしのような眩しい世界の姿と、その、眩しい世界への強烈な憧れ。確かにそこにあるのに、過ぎ去ってしまうもの。強く願うほどに触れないもの。

ブリッジハーフミュートのカッティングとエレピの、リフともバッキングともつかないフレーズと、シンプルでエモーショナルなメロディの繰り返し、という実に無駄のない、そして穏やかな曲なのだけれど、その情景の奥行きの深さ、存在感の強さたるや。このCDは佐藤氏の「人を殺したい」いわくの、ドスで重く切りつけるみたいなギターや、攻撃的なノイズを前面に出した楽曲も多いのだけど、最後に来るこの曲が齎してくる喪失感が、一番甘くて、一番死に近い。気がする。「神様お願い見ないで」の、歌の強烈さ、そしてブラウンノイズがあっ、今何かが駄目になった、みたいな強い痛みを強烈に差し込んでくる、あの一瞬の強烈な虚無感。あ、わたしこれでブラウンノイズ好きになったよ。たぶん。

佐藤氏のソングライティングセンスは非常に独特というか、ギタリストさんらしい無骨さを持ちながら、非常に人の心の深い場所にアクセスしてくる感覚があって、あべさんの歌唱と歌詞はもう何も言うことなくって、あとシーケンス・トラックメイキングを担当されている永尾さんの音が、私すごく好きで。まー永尾さんこのCD最後に空色絵本を脱退されてしまったのだけれど、私は空色絵本の永尾さんがいっとう好きかもしれない。

ついでに佐藤氏の日記の過去ログを見つけたので貼っておくのだった。
http://www.politmia.net/cgi/sato3/usr/bin/perl/diary.cgi?mode=trackback&no=159
みんな空色絵本を聞こう。聞くのだ。

……というので第一稿を終わる。
だって、ブログタイトルに空想音楽って書いちゃったら最初にこの人たち書かないとだめだしって思ったのだもの。なんかブログの趣旨と若干外れてる気がするけど、でも、これは私の「幻想」「空想」に対するスタンスの、それを規定する一部となった音楽の話でもある。

 

願いの標本

願いの標本